大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)

大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)
大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)

大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)

大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)

大けが乗り越えシッティングバレーで世界へ挑む 田澤隼選手(弘前市出身)

低い目線。狭いコート。お尻を床に付けたまま、素早く移動し、ボールをつないで、スパイク!目まぐるしい攻防が繰り広げられるパラスポーツが「シッティングバレーボール」です。

千葉パイレーツ③201812

2021年夏に日本代表として、東京パラリンピックに出場し、チーム最年少ながら主力として活躍した弘前市出身、田澤隼選手。リクルート所属で、千葉県のチーム「千葉パイレーツ」の一員として全国大会の優勝にも貢献しています。

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19歳のころ、事故で右足を切断し、普段は義足を着けて生活している田澤選手。

(田澤隼選手)

「最初は兄姉について行っていたので、やらされている感はすごくあったかな」

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家族の影響で、小学3年生からバレーボールの世界へ。強豪・弘前工業高校バレー部では、厳しい練習の日々を過ごします。

(弘前工業高校バレー部 春藤裕和 監督)

「負けたんですよね、2月の県予選で。彼がリベロとして出て、ちょっと失敗が多くて」
「それから、彼は猛練習をするようになって。自分で、朝も昼休みも、すごく工夫をしながら練習をして」

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努力の末、10月の県予選では優勝。全国大会、通称「春高バレー」への切符をつかみ取りました。

(田澤選手)

「(当時は)楽しい!しかなかったですね。この場所で試合できるということがすごく楽しいなと」

結果は、2回戦敗退。「精一杯やってすっきりした気持ちで終えられた」と、高校卒業後は地元で就職。社会人チームに所属します。

「週4日くらいはバレーしていましたね」

その一方で、田澤選手の祖母はリンゴ農家。高校時代は練習が忙しく、なかなか手伝いに行けなかった農作業を社会人になって再開しました。

そんな時…

「リンゴを運ぶ機械を自分が運転していたんですけど、前の日がすごい雨で、斜面もドロドロな状態で、長靴に泥が付いていて、ブレーキをしながらギアを変えた時に、ブレーキで滑ってしまって。そのまま坂を下っていって、コンクリートの水槽があるんですけど、水槽と機械の間にひざが挟まれてしまったという感じで『あ、やばい、やっちゃった』と思って、『仕事どうしよう』みたいな。『バレーできるかな』みたいな、そんなことしか考えていなかったですね」

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当時、仕事中だった母・水穂さんは慌てて病院に向かいました。

(母・水穂さん)

「会って初めて大けがだというのが分かって、もう何も考えられなかった」

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挟まれた右脚は、切断せざるを得ず、腿から下を失うことになりました。

(田澤選手)

「『まあ、しゃーないか』みたいな、元々『やっちゃったものは仕方ない』というふうには自分の中で思っていたので」

前を向く田澤選手を、一層 力づけたのは。

「チームの仲間がすごくお見舞いも来てくれたし、このまま続けてバレーも一緒にやろうとも言ってくれていたので、本当に仲間に救われたなあというところが大きかったです。仕事終わり皆来て、なぜか病室に入り浸っているみたいな」「落ち込んでいられないなあと」

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懸命にリハビリに努め、義足で生活できるようになると、スノーボード、ボウリング、バドミントン…未経験のスポーツに、どんどん挑戦します。また、リハビリでお世話になった社会福祉士に自分もなりたいと、大学へ進学。

(母・水穂さん)

「自分よりポジティブで、なんでもやったよね。前向きで、逆に自分達の方が励まされているような感じもあります」

その4年後、大きな転機が。

(田澤選手)

「バレーあるんだ!と思って、障害者スポーツで活躍できるかもしれないというのが自分の中で大きかったですね」

競技実績や春高バレー出場の経験を買われ、すぐに代表合宿に呼ばれました。新たな競技人生のスタート。

「シッティングバレーだと、手と足で移動して手で取るので、普通のバレーより動作が一つ多い。慣れるまでは1年以上かかりましたね」

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八戸市のチームを経て、現在は千葉県に拠点を移し、プレーしています。

「世界大会に初めて2017年に行った時に、海外の人と戦うってなって、そこで『世界と戦うんだな』というのは改めて実感する。大舞台に立てるというところは、本当うれしかったです」

田澤選手、およそ10年ぶりにリンゴ畑を訪れました。祖母・小山内サツエさん、79歳。現在も、休み休み、家族と一緒にリンゴを作っています。

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(祖母・小山内サツエさん)

「よく働きに来たんだよ。小さい時から、おらたち(私たち)忙しいとこで、手伝いしに来るんだって。日曜日だの、しょっちゅう電話もやったりして、来るんでねえかって」

そんな中、起きてしまった、不慮の事故。

「これからどうなるんだべなと思った。それ一番心配でいた。それでも、皆に助けられている感じしてな。よその人に手差し伸べられたの、本当に良かったなと思った」

仲間に支えられ、今や世界で活躍する孫を誇りに思うとサツエさんは話します。

「よくやるんだって。皆(田澤選手を)覚えて、皆声掛けてくれるんだって。頑張ってるなって」

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家族思い、仲間思いの田澤選手。苦しみを、明るい笑顔で乗り越え、さらに前へ進み続けます。

(田澤隼選手)

「目標としては(次回のパリ)パラリンピックでのメダル獲得なんですけれども、その他にも、シッティングバレーボールってすごくマイナーなスポーツなので、全国に広めたいなと思っていて、それも大きな夢の1つではあります」

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(母・水穂さん)「次のパラリンピックも目指していると言っているので、ぜひ、行けたら、頑張ってもらいたいですね」「パリへ応援に行きたいです」

(田澤選手)「そこが主だね」

田澤選手は11月にボスニアヘルツェゴビナで開かれる世界選手権大会に出場予定です。

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